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「京都 東寺」

 

最近、京都によく足を運ぶ。何年か前までは、基本的に年に一回、静かな年の瀬を選んでこの古都を訪れていた。年始は神社の参拝客でごった返す京都も、年末はというと、観光名所に人出も少なく、落ち着いた気持ちになって、一年を振り返りながら、その年の出来事に想いをはせることができるからだ。しかし今年は、三が日の賑わいがやや落ち着いてきて、平静の姿を取り戻そうとしていた1月6日の日に出かけることとなった。京都の町は、それでも市、内外から多くの初詣客が集まり、華やかな顔を見せていた。年末の静寂が嘘のようで、まだまだ有名な神社の周りでは、着慣れぬ着物に袖を通し、場に馴染まずひときわ浮いてしまった男女の姿が目立ち、人当たりするほどの熱気とエネルギーで満ちあふれていた。

私は、用があるときも、そうでないときも、何故か知らぬ間に気持ちが京都にってしまうので、行くことが叶わぬときでさえ、日程表を引っ張り出しては、予定とにらめっこをすることが、最近多くなってきている。だいたい「京都」という言葉を聞くだけで心は高揚し、私の意識はすでに京都の町にあるのだ。「立体曼荼羅」で有名な東寺は、そんな私が実際に必ず訪れる聖地だ。金網が格子状に入った木枠の古い扉をそろりと引き、まずは講堂に入る。目の前には東方を守護する「持国天」が顕れる。お姿を左横から拝見し、さらに左に回り込むと真正面からその圧倒的な迫力で迫ってくる。扉は間口の狭い横側についているため、回り込んで初めて、この講堂の空間の広さと安置されている仏像の数とその全体の迫力に驚く。構内は、昼間の明るさと正反対の、薄暗い、しかし凛とした空気に満ちているので、身が引き締まる。四方の方角をそれぞれ守護する四天王の中でここの「持国天」は何故か特別に心に訴えかけるものがある。そのままさらに進み、その中心に立ち、全体を見渡すと、大日如来を中心に21体の仏像が整然と配置された、密教の曼荼羅の世界が立体的に眼前に拡がってくる。「持国天」もそうだが、「大日如来」の教えを行動で示すという、「不動明王」などにも見られる、歯をむき出しにしてこちらを見入るの仏像が、私のお気に入りだ。渇を入れられているようでそれが心地よい。「不動明王」は、煩悩を宝剣で刻んで火焔後背で焼き尽くす、と言われ、まったく勇ましく、力強さに満ちている。私はただその前で圧倒され、出来ることと言えば、併せ持った慈悲深いそのお姿にすがることだけだ。

東寺のもう一つの見所は金堂だ。講堂と同じようなこの建物の扉を引くと、そこには巨大な3体の仏像が静かに我々を見下ろしている。「薬師如来」を中心に、右に「月光」、左に「日光菩薩」だ。講堂の仏像群は「どうだ」とばかりに動的なエネルギーを発しているが、ここ金堂の仏像は知的な面持ちで内に秘めた涼しげなエネルギーをまとっている。その中でも、月光菩薩は慈悲に満ち、見上げる私に静かに語りかける。子供の頃、悪さをした後に、許されて、思わずほっとしたときのような情感がわき起こってくる。そんな時は、いつも一歩下がって後ろの壁際の長いすに腰をかけ、しばらくその余韻を楽しむ。

京都の町並みには、長い歴史が作り上げた文化や、その時々に存在した無数の人々の「生きた証」が、今の世にもしっかりと残っている。私は何よりもその全身を貫くような感覚が好きだ。「生きた証」は、決して過去のものではなく、現在にも見えない形ではあれ、「念」のようなものとして存在し、確かに息づいている。遙か遠い昔に建立された神社仏閣には、ことさら先人達の思いが強く感じられ、我々現代人を大きな包容力で包み込む。そこでは、現代人より先人達の思いがより強く残っているためだろうか、一種独特な気配が、空間に静寂と安心感をもたらしている。現前するこの異なる時空間に立ち、しばらく佇んでいると、隠れていたなんとも懐かしい記憶が蘇えり、過去と一体になったような未知の感覚に全身が研ぎ澄まされる。そんな時は、普段、存在についてさえ考えもしない五感全ての能力が、自然と敏感になり、私はそれらを使って感じ、同調する。

歴史の重みが現代の息吹の中に調和し、反発し、そして新たな町へと変貌する。いにしえと今このとき、仏と人間、何か相反する要素や価値観、そしてそこから導き出される意味について考察する楽しさをこの古都は味わせてくれる。

 

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